切実さ・・・京の町家を訪れて

8月、札幌から松山までお盆で帰省する時、京都に立ち寄りました。
京都はやはり好きな街で、何度も訪れていて、
店に改装した町家に行ったことは幾度となくあるんですが、
今回初めて、そのままの状態の町家を見る機会を得ました。

町家というとむかしの「家」。
しかも「うなぎの寝床」などと言われるものだから、
「小さな家」というイメージが先行しがちですが、
実際には敷地面積が100坪もあるような、かなり大きなものです。
「うなぎの寝床」というのは、
間口に対して奥行きが深いのでそういわれているだけで、
決して小さな家のことを揶揄したものではありません。

ましてや「家」としてイメージすると
こんな大きな家はいらないだろうとなるでしょう。
実際、期間限定で公開されていたこの町家も
大きさを持て余し、家主の方は、奥にもう一軒
小さな家を建てていて、そこで暮らしておられました。

現代人が正しく町家をイメージするためには、
「社宅付店舗兼社長邸」あるいは「社宅付工場社長邸」
と思った方がよいでしょう。
ここに社長とその家族、社員一同が暮らしているとなれば、
(拝見した町家では総勢20名あまりが暮らしていたとのこと)
そういう意味では、確かに小さいのです。

町家というとやはり「中庭」「奥庭」などの
風通しや採光に考慮した作りや、
通り庭に見られるような機能性に目が行きます。
「中庭」と「奥庭」の大きさを変えることで、
影の少ない温かい庭、影でおおわれる冷たい庭をつくることで、
風を起こすとか、「通り庭」などは、いわゆる
ハイサイドライトをもうけて採光と煙出しをしているとか、
これだけ「通り庭」を明るくできる一方、
居室には「中庭」「奥庭」が採光のためにあるにもかかわらず、
わざと反射が少ない材料で暗くして、
光を「見せる」という方法で取り入れたり、
こういうところの合理性や美学に驚かされるばかりなのですが、
今回の町家拝見で一番頭をもたげたのが
「丁稚どんは、結婚できるのか?」ということです。

勝手な想像をしました。
たぶん丁稚どんの多くは次男でしょう。
ブラジル移民やハワイの移民の多くは次男だと聞きます。
長男は先祖代々の土地や家業を守るため残るのは必然。
この北海道の開拓も多くの次男によって
成し遂げられたのは、想像にかたくない。
この町家では、長男は個室が与えられ、
他の兄弟は雑魚寝だったようです。
長男は家業を継ぎますから、相当大事にされていた。
一方、次男である丁稚どんは、もう帰る家もないのです。
結婚するから実家にかえりますという選択肢はない。
結婚するということは、この家(店)を出て行くと言うこと。
つまるところのれん分けしてもらって、
店を持つと言うことではなかったのでしょうか。
(注:相当オーバードライブさせて書いてます)

制度としての「家」が如何に強固なものであったか、
そして建築としての「家」が如何にそれを反映させたものであったのか。

振り返って我が家の計画。夫婦2人子供なし。
つまり継ぐものはいない。変な話、「墓」をつくるのと変わらない。
建てる前から、遺言書をつくっとかなきゃな、
などと冗談ともそうでないとも言えないことを考えたりします。

うちの近所を歩いていると、打ち捨てられた家があります。
誰のものともわからない。その家を継ぐ人は途切れてしまい、
売るにも売れず、壊すにも壊せない。
これからこういう家は増えるでしょう。
その家の前を通るたびにそんなことを考えます。

一方、家の流動性を高めるため、きちんと標準化された形で
資産として査定できるように制度をつくり
「金」として流通できるようにしようとする動きがあります。
もちろん今でも不動産として流通していますが、土地の部分
だけでなく上物の建物も含めてきちんとするということらしい。
例えばそうすれば、いよいよ老人ホームで世話になる時、
売るなり担保にするなりすればいい訳です。

けれど、だれにとっても価値を持つ家と言うのは、
まるで一万円札がどれを見てもやっぱり一万円札なように、
全部同じになるだろうことは、明らかではないでしょうか。
資産としての家をつくるのか、
自分たちの価値を反映した家をつくるのか、
あえていうならば、計画するこの家は、
他の誰も住みこなせない家にしたい。

建築としての「家」を守ることは
制度としての「家」を守ることと
同義であることを痛感した旅でした。

切実さ・・・小さな海辺のまちで


ずいぶんと長い間ほったらかしになってしまいました。
7月8月9月の3ヶ月の間、札幌から松山、京都、
四国の港町八幡浜、石垣、竹富島、西表島、
黒島、沖縄本島といろいろなところに行っていたのですが、
書く気持ちの余裕が無かったり、いろいろ見て感じたものを
なかなか自分の中で消化できなかったり、
そういうわけで、なかなか筆がすすみませんでした。

この旅を通して考えたこと・・・・
「切実さ」ということが頭を離れません。
「自宅建設」の計画に話を絞れば、
「この計画の切実さとはなにか?」という問いが
生まれてきたというわけです。

四国の三崎半島の付け根にある港町八幡浜の市街から
車で15分程度でしょうか。市町村合併する前は、
保内町というところでした。
私の父が生まれ育った場所です。
父の育った実家はすでに人に貸していて、
遠慮もあってなかなか行くことが無かったのですが、
故あって、久しぶりに訪れました。

今やここも寂れてしまったまちのひとつですが、
往時は、いち早く銀行ができたりして、
瀬戸内の海運でにぎわったまちです。
父の実家も船を持っていて、小倉から石炭を積み
大阪へ、大阪からの帰りは雑貨を積んで広島へ、
広島からは坑道に使う材木を積んでまた小倉へと
一家で海運業を営んでいました。「海運業」というと
聞こえはいいですが、漁師でいう「網元」として
「おけや」といわれる総元締がいて、
そこで差配される仕事をやるという立場です。
そんな船が家みたいな人たちが陸(おか)で暮らす場所は、
山が迫り、集落は石垣を積んだ上にできています。
街路はくねくね、人とすれ違うときは、
互いにゆずらなければならないくらいの狭さです。
この集落をつくるには、相当な苦労があったことでしょう。
ではなぜここに人は住みついたのでしょうか。

今や「生業」のために「場所」を捨てることは、
当たり前のこととして受け止められています。
私もこうして一人になる前は、サラリーマンで、
東京、名古屋と転勤し、仕事をしていました。
「生業」と「場所」の関係は、現代では、
多様・・・というよりは複雑になりました。

しかしそのむかしは、そうやすやすと
「場所」を捨てることはできなかったでしょう。
「生業」があって「場所」に住みついたのではなく、
この「場所」があって「生業」を生み出した。
そして「集落」がつくられた、そう考えます。
「棚田」がそうであるように、
逃れられない「切実さ」から生まれた姿に、
「美しさ」を感じずにいられませんでした。

ちょー便利か、洞窟

遠い昔の人は洞窟みたいなところで暮らしていたのだと思うのですが、
洞窟自体をどうするか?というのが建築の始まりだと思うのです。
洞窟から始まって、いろいろあって、これから建築はどうなっていくのか?

どっかで読んだんですが、
エジプトかなんかの古代遺跡を発掘して、建築物らしきものを調査しても、
一体全体これがなにに使われていたものなのか、わからないものがある。
なぜわからないかというと、いろいろ文化的な側面でわからないことが
あるからなのだろうと、調査した人は、考えているようです。
とするならば、建築は、その時代の文化を投影しているといえます。

近現代の基調となる潮流は、「便利にする」ということだろうと思います。
建築が文化を投影していると考えると、
徹底的に便利な建築とがあってもおかしくない。
たぶん徹底的に「便利」に作ろうとしているものとしては、
一つは工場というのはあります。

家でそんなものがあるのだろうかと考えた時、
私の無い知識の中で言うのもなんなんですが、
便利を「徹底」している家は、よく思い出してみても思い出せない。
「ダイマクシオンハウス」を思い浮かべてみたんですが、
これを便利というのは、何か違うような気がします。

家で便利になったものと言えば、
キッチンとか風呂とか便所とかの「部分」はあきらかに便利になりました。
それともう一つ家で便利になったことがあるとすれば、
それは、家そのものではなく、家を作ることでしょう。
部品は共通化され、木建問屋というところに頼めば、
家一軒分の部品が手際よくそろいます。
ここら辺を徹底し、もっと地球全体やシステムみたいなことまで
含めて考えられたのが「ダイマクシオンハウス」で、
それをもっと人に受入れやすく・・・・・
つまりなんとなくステレオタイプな家をイメージできるものに
ひよっていったのが、いわゆる現代の「家」だと言ったら言い過ぎでしょうか。

いすれにせよ、家の総体としての「便利」とは、なんなのか、
それに応えている建築を私は知りません。

612621


旧ワンダーアーキ建築設計事務所で行われていた「612621」が終わって一週間。
開催期間中の天候とはうってかわって、夏の日差しが差し込んできます。
10日間の喧噪がやみ、放置された作品に囲まれて、今日は静かな土曜日です。

頭まで静かになってしまって、あまり考えることができません。
あまり考えることができない中、ラウシェンバーグの残した言葉
「芸術も生活もつくることはできない。われわれは、その間の、
 定義しようのない空隙で仕事をしなければならない」が頭を巡っています。

それから「美はどこにあるのか?」ということが頭を巡っています。
建築には「用・強・美」があって
私は「強・美」しか残らないのではないのかと考えたんですが、
もっとも怪しいのは「美」なのです。
「美」こそ受け止める人の側にあると思うのです。

さあ、いよいよ楽しい自宅建設の計画をしよう・・・・
そんな矢先の逡巡です。

私は構造家になるべきでした


612621に来たアーティスト冨田氏とは、土曜の夜、日曜の昼と
とても有意義な議論を交わすことができました。

その中でも「建築は重力と戦わなければならない」と冨田氏がいうのは、
あたりまえすぎるからこそ、あらためていろいろ考える種になりました。

建築は、なんとなく長い間存在しているように感じられるものだから、
あらためて200年とか10年とか期間をきちんと考えると、
さまざまおかしなことが起きていることに気づきます。
最近まで大学内にある私のスタジオの横では、
設計演習の課題「小学校」をうんうんうなりながら学生たちがやっていましたが、
旧ワンダーアーキ事務所の前には小学校があって、そこを通りがかった時、
わたしだったらどんな小学校を設計するだろうか?と思いを馳せたりしたんです。
「結局のところ、構造しか残らないんじゃないか・・・」
という気持ちになっていたんです。
冨田氏との話は、そんなことを裏付けてくれるよう話でした。

大昔から「用・強・美」などといいますが、
本当は「強・美」だけが結局が残るのではないでしょうか?
「用」は使う側の創造性にゆだねられているような気がします。

200年


国交省とか自民党とかが200年住宅なる政策を打ち出しています。
民間のデベロッパーなどで100年住宅なるものは
どっかで見た記憶があるんですが、
200年というと、かなり考え方を変えないといけないとだまされます。

まず、「住宅」という文言は、はずすべきだと思います。
「住宅」という言葉を使って、
「住宅」を建てようとする人に、負担を求めているように見えます。
確かに衣食住と言う言葉があるので、「住む」ということが
200年先にもあることは間違いないと思うのですが、
「住み方」「暮らし方」は変わると思っておいた方がいい。
家族制度や社会のあり方などもかわるかもしれません。
200年前を考えてみてください。江戸時代です。
だから200年建築ということにしておかないと、
200年後の世界で住宅として通用するかどうかわからない。
建築という言葉にしておかないと、
なんだか末端の一住民が一生懸命200年住宅を建てる羽目になる。

それから建築教育を変えないといけない。
建築に携わる人々も意識を変革しないといけない。
どのように変えるかというと、「機能主義からの脱却」。
「近代建築さようなら」です。

もっとおおらかな建築を作らなければなりません。
建築家は、そういうのを作る方法を、
あたらしいパラダイムを模索しなければなりません。
機能主義というのは、設計方法論としては、
とてもよく出来た「主義」なのです。
だれにでも通用するし、簡単です。
だけど、或る部分、この時代にしか機能しないことがあります。
200年先を見据える時、今の時代にしか通用しない機能をもとに、
建築を作るのは、200年先にはおかどちがいになってしまいます。

それから、おおらかであることを許容する社会でなければなりません。
明日の銭金の話をしないといけない時に、
社会的ストックという美名に、
一枚も二枚ものっかる太っ腹な世の中である必要があります。
200年先の見ず知らずの人間が使うものに、
今、金を払うということです。
銀行が200年ローンを組ませてくれれば、これは本物でしょう。

なんだか批判めいた展開になりましたが、
目先の話で終わらせようとしているところが気に入らないだけなのです。
単純に丈夫に作って200年耐久させるという話にして、
「丈夫=いいことだ」みたいなわかりやすいけど、だましやすい話に
なりやすいというところが、なんだかうさんくさすぎる。
だけどそれを差し引けば「もっとも」なことだとと思います。

200年先を見据えるならば、
「地面の上に建てるものを作る」という発想から
「建築は地面そのものだ」というくらいの発想の転換が必要か、
「建築は建築そのものだ」というくらいの強弁が必要です。

はらっぱ


私には今、「説明のつかない場所」があります。

たとえば、この旧事務所(菊池邸建設予定地)。
事務所に使っていたときも、全体の1/4しか使ってませんでした。
しかも何に使うかわからず、意味不明のまま、
大学の後輩Kくん、Nくん、Mくんたちをそそのかし、
ひとつの部屋の床を抜いて、吹抜けにしてしまいました。
これでも1/3しか、事務所スペースはありません。
しかも別の場所にメインの事務所を移転したので、
いよいよなんといったらいいのかわからない。
「X」とか「スペース」とか言ってます。
それから、今週末には、おふくろがこっちにやってきて住むための
中古のマンションを買うのですが、これも来年くらいまでは、
住む予定が無いので、単なるスペースとして存在することになります。

普通は、「○○する場所」とか「××する場所」とかいうように、
なんらかの説明のつく場所を行ったり来たりしているものだと思います。
仕事なのか、学校なのか、住む場所なのか、休息したり、
買い物したりする場所なのか、あるいは不動産として、
金を生み出す場所というのもあると思います。
要するに「説明のつく場所」というところで生活しているのです。

そこにやってきた「スペースバブル」。
大人が「はらっぱ」を与えられたんだけども、
子供じゃないのでどうやって使ったらいいのかわからない。
そんな状態をすこし楽しもうと思います。

歴史

遠く故郷の四国松山を離れたのが・・・何年前だったでしょう。
札幌に来たときは、このバカに道が広いのと、まっすぐなことに、
正直、慣れませんでした。(名古屋もそうだった・・・)
人間のスケールに遠いというか、とにかくそれが嫌でした。
私が住んでいたところは、その中でも整然としたところだったので、
吹雪の夜、友達の家で飲んで帰る時、家々のシルエットがよく似ている
というのもあって、ほんとに遭難しそうになりました。

住めば都とはよくいったもので、そんなコトにも慣れました。
そしてまさしくこのスカスカした感じや、
整然としているところが札幌の歴史を物語っているし、
今やそこがいいんだよなあなどとのんきに思っていたら・・・・・

この三角形の敷地。
どう考えても札幌の歴史に反逆している。
開拓した年代によって測量の違いなどで、道がずれていたり、
局所的にへんな地割りをしてそうなったりしますが、
測量図を見ると、この当たりに一本の45度の境界線が
それこそビャーと通っています。
これも札幌らしい大胆さなのですが、
とにかくその角度が気になってしかたない。
ファイターズ通りがななめなのと関係ありそうだと、
辿ってみたら、どうやらこのあたりは
大友堀・・・いまの創世川・・・札幌を建設するために
掘られた水路が関係ありそうです。
どうやら歴史に反逆しているのではなくて、
まさしくこの三角形の敷地は「歴史」を持っているようです。
どうりで車が通るたびにひどく揺れると思った・・・

大きいこと


「小さいこと」を考えた次に、
とてつもなく「大きい家」について考えました。

例えば、超高層マンションまるまる一棟が「俺んち」だったら。
何をするんでしょうね。
あるいは、どこを何の部屋にしますかね。
ちょっとやそっとの豪邸じゃありませんよ。
あえていうなら、「皇居」かな。
だけど私が考えているのは、
敷地が広いのではなく、家そのものが大きいということです。

「大きい家」を考えることは、
やはり「家」とはなんのだろうと
考えるヒントになるのではないでしょうか。

でも私のうちの敷地は狭くて三角形なので、
そんなバカなこと考えてないで、
現実に目を向けろとカミさんに怒られそうです。

小さいこと



今日、むかし私の事務所でバイトしてくれていたS君が、
わざわざ訪ねてきてくれました。いまや財務省のおエラいさんです・・・・
どうにも信じがたいことですが・・・・
それから彼の同期のSさんとも北大で落ち合って、
「心」というスープカレー屋に行きました。

「心」のカレーは、むかしの事務所前にある「ピ○ンティ」とは違って、
むかしのままでうれしくて、そして「友遠方より来る」。
それで・・・・いやいや本題は「心」の話ではなく、
コルビュジエのカプマルタンの話です。

彼らは、私が札幌にもどったばかりの時に、
「コルビュジエの全住宅 札幌展」で苦楽をともにした仲間です。
そのとき彼らがつくったのが、
写真の「カプマルタンの休暇小屋」の原寸模型です。
段ボールシートでできています。

カプマルタンは、地中海に面して建つ、建築家コルビュジエの別荘です。
とても小さく、大きさは3.6m×3.6mくらい。
ここにコルビュジエとその妻イヴォンヌの
夏の生活のすべてが詰まっています。

稀代の建築家の稀代の掘立小屋。
私はあえて「掘立小屋」と呼ばせてもらいます。不思議な建築です。
美しい海を前にして、なぜあんなに窓が小さいのだろう・・・
と考えてしまうと、「大きい方がいい」という答えになるかもしれません。
夫婦2人とはいえ、なんであんなに小さいのだろうと考えると、
「広い方がいい」という答えがでてきてもおかしくありません。

けれども、この原寸模型を体験すると、
小さな窓であるが故に、つよく海とのつながりを
感じることができるのではないかと思うところがあります。
あるいは、この小ささであるが故に、
人と人との親密感、人と建築との親密感が強く感じられます。

小さいと言えば、茶室は、小さい建築の代表格でしょう。
千利休作「待庵」を外から拝見したことがありますが、二畳しかありません。
札幌にあって雪でつぶれてしまった「八窓庵」は、二畳+ちょっと。
同じく小堀遠州の作と伝えられている金地院の「八窓席」。これは三畳です。
しかも一説によると、壁はイカスミで黒く塗ってある。
「Paint it black!」ストーンズじゃあるまいし・・・・
「八窓席」は、中にも入れていただくことができたのですが、
「茶室に入ると、宇宙とつながることができる」という話が実感できました。

広い宇宙と接続するために、小さくつくる。
この逆説めいた方法が、カプマルタンにも感じられるのです。

ポスターから考えたこと


展覧会612621のオープニングとして6月12日にトークイベントを
北大でやっていただくのですが、タイトルが、


「菊池邸建設予定地とは何なのか?」


アヤさんが考えたコピーなんですが、
ちょっと引きぎみ。特にカミさんが・・・・・
とはいえ中身をよく表したタイトルであることに違いないです。
それでそのポスター、フライヤーが出来上がってきました。
612621プロジェクト真砂さんがつくったものです。

DM、ポスター、フライヤーどれにも
「旧ワンダーアーキ建築設計事務所」にある
とても小さな断片の写真が使われています。
それは、どれも記憶にあるもので、
ひとつは、なんの様式をコピーしたのかわからない、
トイレのドアのノブ(とにかく白く塗り込めた・・・)であり、
ひとつは、抜こうと思っていたのに、
結局ほったらかしにされて残っている
鴨居に打ち付けられているビスであり、
そして、塗り損ねて気になっていた配管と壁の取合いであり、
私にとっては、ある種、ネガティブな価値しか無かったものです。

ところがこうやって写真を見せられると、とても愛おしい。
私にとっては、まるでむかし聞いた曲が流れてきて、
その時のことを思い出す、そんな感じがするポスターです。
「ハシラノキズハ オトトシノ
 ゴガツイツカノ セイクラベー・・・・・」。

真砂さんが、どういう意図でこの写真を使ったのか、
撮影したアヤさんがどういう意図でこの場面を切り取ったのか、
もし私をセンチメンタルな気持ちにさせようと意図していたならば、
私は「安い観客」になってしまいました・・・

でも、この場所を見たことのない人にとっては、
私の安いセンチメンタリズムなど、共感できないでしょう。
あくまでも「思い」は、それぞれ見る側にあります。
作者が意図してつくる。観客が思う。
そこにずれが生じた時、
驚きと作品の深度ができるのではないかと思います。

テント

うれしいメールが届きました。
ブログタイトルの写真の家のクライアントから。
過ごしやすくなったこの季節になると、
お子さんが中庭でテントを張って寝ているとのこと。
これは設計したものにとって、予想外の出来事です。

設計とは、何らかの「意図」があって行われるものなのですが、
「意図」通りになればなるほど、不思議となんだか不自由に感じたりします。
だからと言って設計は、「意図」から逃れることはできないでしょう。
「意図から逃れる」意図が発生するというパラドックスを引き起こすから。

居心地の良い居酒屋。
・・・・こいつが設計されたものか、なんとなくそうなったものなのか。
設計したもののみえすいた「意図」を考えると、
圧倒的に「なんとなくそうなった」ほうに軍配があがるでしょう。
私はやはり設計できない「魅力」というものがあると思います。

では結局「設計」というのは何の役に立つのでしょう?
といってしまうと立場がなくなるので、こう考えることにしようと思います。
懸命に設計する。そして設計できない魅力的なものが、
設計という手からたくさんこぼれ落ちる。
そういう余白をたくさん含んだ設計ができないか、最近よく考えたりします。

500万


お金を銀行から借りれるか?ということに
このプロジェクトの成否がかかっている・・・・
と思うと気がめいるので、
あまり考えないようにしています。
だけど考えなきゃいけない。

先日、某大学の講評会で、
佐呂間で設計活動をしている五十嵐氏と話す機会がありました。
氏いわく「500万円でアトリエをつくれるか?」。
私は、つくれるかつくれないかということよりも、
500万円という響きが好きになりました。
氏は、以前札幌近郊に1500万円の住宅を設計しています。
その建築を見せてもらいましたが、
相当な苦労・・・たぶん切り捨てる苦労で乗り切った、
そしてそれが良い方向に働いた、そんな建築という印象を持ちました。

私も同時期、ちょうどブログのタイトルバックに写っている
家を設計していて、やはり目指せ1500万円だったので、
とても苦労したのですが、アプローチは違いました。
私は、屋根、壁、窓の3点セットだけを用意し、
あとはセルフビルドでやってもらう・・・
かなり私も手伝いましたが、そうやって乗り切りました。

乗り切った・・・というと聞こえはいいですが、
当初できたのはほんとに屋根、壁、窓だけで、
お金ができるたびに、何かをやる。
工事は延々と続き、建築は変貌していく。
だから厳密にいうと1500万円ではないのです。
「時は金なり」を悪用?誤用?したやり方です。

それから「建築のボーダーレス化」をしました。
これは「時は金なり」とセットです。
ドアは建築か?床の色は建築か?キッチンは建築か?
家具とかスプーンとかと一緒と考えることにしたのです。
そんなふうに考えると肩の力が抜けるでしょう。
肩の力が抜ければ、クライアントがドアをつくったり
できそうな気がしてくるでしょう。
「建築なのかそうで無いのか」は、
工務店にとってはとても大切なことですが、
生活する人にとっては、建築か建築でないかは関係ないこと。
設計する立場からは、ほんとは壁の色とか重要だったりするんですが、
とにかく骨格を与えることのみを考えることにしました。

さて振り返って我が家(構想中)。
やはり金がないのはまぎれもない真実。
ちょっといい車の値段とはいえ、土地を買ってしまったら貯金0。
「切り捨て」も「時は金なり」作戦も「建築のボーダーレス化」も
総動員して、ほんとにできるのだろうか?
そんな中、「500万円」というのは、金銭の多少の話を超えた、
大きな意味があるのではないでしょうか?

家とは何か?


建築を考える時、いつも頭に浮かぶ考えがあります。
「建築は、大きくふたつに分類される。
 ひとつは行くところ。もうひとつは帰るところ。」

帰るところとは、つまり「家」なのではないかと
考えているわけですが、
この考えが何かの役に立つのか、どうなのか、
わからないのだけれど、いつも頭に浮かぶのです。

漠然としているのですが、
「行くところ」は、なにか目的的な所で、
「帰るところ」は、それ以外の場所という意味で、
無目的的な所なのではないかと思ったのです。
建築が無目的であることは、
近代建築の枠組みの中では、かなり無謀です。
「帰るところ=家」なのだから、
「暮らす」とか「住む」とか
きちんとした目的があるではないか
という反論は当然あるでしょう。
でも「暮らす」とか「住む」とかが、
「うんこをする」とか「寝る」とか、
明解なものとは違うというのも確かです。

現時点では、「無目的」に軸足におきながら、
「うんこをする」とか「寝る」とかが
できる家を構想しようと思っています。
(カミさんには内緒です・・・・・)
とある方からいただいたsaccoという椅子のような、
そんな家ができないか模索しているところです。

家を建てたいと思っていたんです


美術館を建てたい、大きなビルを建てたい、学校を建てたい、
駅を建てたい、ホテルを建てたい、図書館を建てたい・・・・
いろんなものを建ててみたいと思います。
設計事務所をやっているわけですから、
そんなコトを妄想してみたりするんですが、
でも設計事務所が「建てる」訳ではないんです・・・
などとあれこれ考えていたら自分の家は「建てられる」んではないか、
いや「建てたい」と思い立ちました。

いろんな大学で「住宅」の設計演習を教えていますが、
学生ひとりひとり全然違う案を何年にもわたって
たくさん見続けたというのもありますし、
人の家をあれこれ設計してきたというのもあります。
仕事ですからいろんな本、雑誌も見ますし。
それが生業なので当然と言えば当然なんですが・・・・
なんだか無性に自分の家を建てたくなったのです。

決定的だったのは数年前、
札幌ではいいと言われているエリアで、
車みたいな値段の土地を見つけたことでしょうか。
ベンツのEクラスの値段だったらおつりが来て、
もう一台いけるような値段です。
結局そこは道路に接しておらず、
建替えることができないのであきらめましたが、
それ以来、ちょくちょく不動産のサイトを見るようになりました。
土地も無い段階で、6m×6m×6mというサイズを先に決めて
なんとかならんものかと演習そっちのけで
夢想していた時期もありました。

願えばかなうもの・・・・
ちょっといい車ぐらいの値段の土地を手に入れることができました。
とても便利な場所なので、
一度どなたか買付けの申し込みを入れていたようで、断られたのですが、
笑ってしまうくらいみごとな三角定規の形をした敷地だからなのか、
とても住めないと思ったらしく、
結局、うちに転がってきたのでした。