小さいこと



今日、むかし私の事務所でバイトしてくれていたS君が、
わざわざ訪ねてきてくれました。いまや財務省のおエラいさんです・・・・
どうにも信じがたいことですが・・・・
それから彼の同期のSさんとも北大で落ち合って、
「心」というスープカレー屋に行きました。

「心」のカレーは、むかしの事務所前にある「ピ○ンティ」とは違って、
むかしのままでうれしくて、そして「友遠方より来る」。
それで・・・・いやいや本題は「心」の話ではなく、
コルビュジエのカプマルタンの話です。

彼らは、私が札幌にもどったばかりの時に、
「コルビュジエの全住宅 札幌展」で苦楽をともにした仲間です。
そのとき彼らがつくったのが、
写真の「カプマルタンの休暇小屋」の原寸模型です。
段ボールシートでできています。

カプマルタンは、地中海に面して建つ、建築家コルビュジエの別荘です。
とても小さく、大きさは3.6m×3.6mくらい。
ここにコルビュジエとその妻イヴォンヌの
夏の生活のすべてが詰まっています。

稀代の建築家の稀代の掘立小屋。
私はあえて「掘立小屋」と呼ばせてもらいます。不思議な建築です。
美しい海を前にして、なぜあんなに窓が小さいのだろう・・・
と考えてしまうと、「大きい方がいい」という答えになるかもしれません。
夫婦2人とはいえ、なんであんなに小さいのだろうと考えると、
「広い方がいい」という答えがでてきてもおかしくありません。

けれども、この原寸模型を体験すると、
小さな窓であるが故に、つよく海とのつながりを
感じることができるのではないかと思うところがあります。
あるいは、この小ささであるが故に、
人と人との親密感、人と建築との親密感が強く感じられます。

小さいと言えば、茶室は、小さい建築の代表格でしょう。
千利休作「待庵」を外から拝見したことがありますが、二畳しかありません。
札幌にあって雪でつぶれてしまった「八窓庵」は、二畳+ちょっと。
同じく小堀遠州の作と伝えられている金地院の「八窓席」。これは三畳です。
しかも一説によると、壁はイカスミで黒く塗ってある。
「Paint it black!」ストーンズじゃあるまいし・・・・
「八窓席」は、中にも入れていただくことができたのですが、
「茶室に入ると、宇宙とつながることができる」という話が実感できました。

広い宇宙と接続するために、小さくつくる。
この逆説めいた方法が、カプマルタンにも感じられるのです。

ポスターから考えたこと


展覧会612621のオープニングとして6月12日にトークイベントを
北大でやっていただくのですが、タイトルが、


「菊池邸建設予定地とは何なのか?」


アヤさんが考えたコピーなんですが、
ちょっと引きぎみ。特にカミさんが・・・・・
とはいえ中身をよく表したタイトルであることに違いないです。
それでそのポスター、フライヤーが出来上がってきました。
612621プロジェクト真砂さんがつくったものです。

DM、ポスター、フライヤーどれにも
「旧ワンダーアーキ建築設計事務所」にある
とても小さな断片の写真が使われています。
それは、どれも記憶にあるもので、
ひとつは、なんの様式をコピーしたのかわからない、
トイレのドアのノブ(とにかく白く塗り込めた・・・)であり、
ひとつは、抜こうと思っていたのに、
結局ほったらかしにされて残っている
鴨居に打ち付けられているビスであり、
そして、塗り損ねて気になっていた配管と壁の取合いであり、
私にとっては、ある種、ネガティブな価値しか無かったものです。

ところがこうやって写真を見せられると、とても愛おしい。
私にとっては、まるでむかし聞いた曲が流れてきて、
その時のことを思い出す、そんな感じがするポスターです。
「ハシラノキズハ オトトシノ
 ゴガツイツカノ セイクラベー・・・・・」。

真砂さんが、どういう意図でこの写真を使ったのか、
撮影したアヤさんがどういう意図でこの場面を切り取ったのか、
もし私をセンチメンタルな気持ちにさせようと意図していたならば、
私は「安い観客」になってしまいました・・・

でも、この場所を見たことのない人にとっては、
私の安いセンチメンタリズムなど、共感できないでしょう。
あくまでも「思い」は、それぞれ見る側にあります。
作者が意図してつくる。観客が思う。
そこにずれが生じた時、
驚きと作品の深度ができるのではないかと思います。

テント

うれしいメールが届きました。
ブログタイトルの写真の家のクライアントから。
過ごしやすくなったこの季節になると、
お子さんが中庭でテントを張って寝ているとのこと。
これは設計したものにとって、予想外の出来事です。

設計とは、何らかの「意図」があって行われるものなのですが、
「意図」通りになればなるほど、不思議となんだか不自由に感じたりします。
だからと言って設計は、「意図」から逃れることはできないでしょう。
「意図から逃れる」意図が発生するというパラドックスを引き起こすから。

居心地の良い居酒屋。
・・・・こいつが設計されたものか、なんとなくそうなったものなのか。
設計したもののみえすいた「意図」を考えると、
圧倒的に「なんとなくそうなった」ほうに軍配があがるでしょう。
私はやはり設計できない「魅力」というものがあると思います。

では結局「設計」というのは何の役に立つのでしょう?
といってしまうと立場がなくなるので、こう考えることにしようと思います。
懸命に設計する。そして設計できない魅力的なものが、
設計という手からたくさんこぼれ落ちる。
そういう余白をたくさん含んだ設計ができないか、最近よく考えたりします。

500万


お金を銀行から借りれるか?ということに
このプロジェクトの成否がかかっている・・・・
と思うと気がめいるので、
あまり考えないようにしています。
だけど考えなきゃいけない。

先日、某大学の講評会で、
佐呂間で設計活動をしている五十嵐氏と話す機会がありました。
氏いわく「500万円でアトリエをつくれるか?」。
私は、つくれるかつくれないかということよりも、
500万円という響きが好きになりました。
氏は、以前札幌近郊に1500万円の住宅を設計しています。
その建築を見せてもらいましたが、
相当な苦労・・・たぶん切り捨てる苦労で乗り切った、
そしてそれが良い方向に働いた、そんな建築という印象を持ちました。

私も同時期、ちょうどブログのタイトルバックに写っている
家を設計していて、やはり目指せ1500万円だったので、
とても苦労したのですが、アプローチは違いました。
私は、屋根、壁、窓の3点セットだけを用意し、
あとはセルフビルドでやってもらう・・・
かなり私も手伝いましたが、そうやって乗り切りました。

乗り切った・・・というと聞こえはいいですが、
当初できたのはほんとに屋根、壁、窓だけで、
お金ができるたびに、何かをやる。
工事は延々と続き、建築は変貌していく。
だから厳密にいうと1500万円ではないのです。
「時は金なり」を悪用?誤用?したやり方です。

それから「建築のボーダーレス化」をしました。
これは「時は金なり」とセットです。
ドアは建築か?床の色は建築か?キッチンは建築か?
家具とかスプーンとかと一緒と考えることにしたのです。
そんなふうに考えると肩の力が抜けるでしょう。
肩の力が抜ければ、クライアントがドアをつくったり
できそうな気がしてくるでしょう。
「建築なのかそうで無いのか」は、
工務店にとってはとても大切なことですが、
生活する人にとっては、建築か建築でないかは関係ないこと。
設計する立場からは、ほんとは壁の色とか重要だったりするんですが、
とにかく骨格を与えることのみを考えることにしました。

さて振り返って我が家(構想中)。
やはり金がないのはまぎれもない真実。
ちょっといい車の値段とはいえ、土地を買ってしまったら貯金0。
「切り捨て」も「時は金なり」作戦も「建築のボーダーレス化」も
総動員して、ほんとにできるのだろうか?
そんな中、「500万円」というのは、金銭の多少の話を超えた、
大きな意味があるのではないでしょうか?

家とは何か?


建築を考える時、いつも頭に浮かぶ考えがあります。
「建築は、大きくふたつに分類される。
 ひとつは行くところ。もうひとつは帰るところ。」

帰るところとは、つまり「家」なのではないかと
考えているわけですが、
この考えが何かの役に立つのか、どうなのか、
わからないのだけれど、いつも頭に浮かぶのです。

漠然としているのですが、
「行くところ」は、なにか目的的な所で、
「帰るところ」は、それ以外の場所という意味で、
無目的的な所なのではないかと思ったのです。
建築が無目的であることは、
近代建築の枠組みの中では、かなり無謀です。
「帰るところ=家」なのだから、
「暮らす」とか「住む」とか
きちんとした目的があるではないか
という反論は当然あるでしょう。
でも「暮らす」とか「住む」とかが、
「うんこをする」とか「寝る」とか、
明解なものとは違うというのも確かです。

現時点では、「無目的」に軸足におきながら、
「うんこをする」とか「寝る」とかが
できる家を構想しようと思っています。
(カミさんには内緒です・・・・・)
とある方からいただいたsaccoという椅子のような、
そんな家ができないか模索しているところです。

家を建てたいと思っていたんです


美術館を建てたい、大きなビルを建てたい、学校を建てたい、
駅を建てたい、ホテルを建てたい、図書館を建てたい・・・・
いろんなものを建ててみたいと思います。
設計事務所をやっているわけですから、
そんなコトを妄想してみたりするんですが、
でも設計事務所が「建てる」訳ではないんです・・・
などとあれこれ考えていたら自分の家は「建てられる」んではないか、
いや「建てたい」と思い立ちました。

いろんな大学で「住宅」の設計演習を教えていますが、
学生ひとりひとり全然違う案を何年にもわたって
たくさん見続けたというのもありますし、
人の家をあれこれ設計してきたというのもあります。
仕事ですからいろんな本、雑誌も見ますし。
それが生業なので当然と言えば当然なんですが・・・・
なんだか無性に自分の家を建てたくなったのです。

決定的だったのは数年前、
札幌ではいいと言われているエリアで、
車みたいな値段の土地を見つけたことでしょうか。
ベンツのEクラスの値段だったらおつりが来て、
もう一台いけるような値段です。
結局そこは道路に接しておらず、
建替えることができないのであきらめましたが、
それ以来、ちょくちょく不動産のサイトを見るようになりました。
土地も無い段階で、6m×6m×6mというサイズを先に決めて
なんとかならんものかと演習そっちのけで
夢想していた時期もありました。

願えばかなうもの・・・・
ちょっといい車ぐらいの値段の土地を手に入れることができました。
とても便利な場所なので、
一度どなたか買付けの申し込みを入れていたようで、断られたのですが、
笑ってしまうくらいみごとな三角定規の形をした敷地だからなのか、
とても住めないと思ったらしく、
結局、うちに転がってきたのでした。