切実さ・・・小さな海辺のまちで


ずいぶんと長い間ほったらかしになってしまいました。
7月8月9月の3ヶ月の間、札幌から松山、京都、
四国の港町八幡浜、石垣、竹富島、西表島、
黒島、沖縄本島といろいろなところに行っていたのですが、
書く気持ちの余裕が無かったり、いろいろ見て感じたものを
なかなか自分の中で消化できなかったり、
そういうわけで、なかなか筆がすすみませんでした。

この旅を通して考えたこと・・・・
「切実さ」ということが頭を離れません。
「自宅建設」の計画に話を絞れば、
「この計画の切実さとはなにか?」という問いが
生まれてきたというわけです。

四国の三崎半島の付け根にある港町八幡浜の市街から
車で15分程度でしょうか。市町村合併する前は、
保内町というところでした。
私の父が生まれ育った場所です。
父の育った実家はすでに人に貸していて、
遠慮もあってなかなか行くことが無かったのですが、
故あって、久しぶりに訪れました。

今やここも寂れてしまったまちのひとつですが、
往時は、いち早く銀行ができたりして、
瀬戸内の海運でにぎわったまちです。
父の実家も船を持っていて、小倉から石炭を積み
大阪へ、大阪からの帰りは雑貨を積んで広島へ、
広島からは坑道に使う材木を積んでまた小倉へと
一家で海運業を営んでいました。「海運業」というと
聞こえはいいですが、漁師でいう「網元」として
「おけや」といわれる総元締がいて、
そこで差配される仕事をやるという立場です。
そんな船が家みたいな人たちが陸(おか)で暮らす場所は、
山が迫り、集落は石垣を積んだ上にできています。
街路はくねくね、人とすれ違うときは、
互いにゆずらなければならないくらいの狭さです。
この集落をつくるには、相当な苦労があったことでしょう。
ではなぜここに人は住みついたのでしょうか。

今や「生業」のために「場所」を捨てることは、
当たり前のこととして受け止められています。
私もこうして一人になる前は、サラリーマンで、
東京、名古屋と転勤し、仕事をしていました。
「生業」と「場所」の関係は、現代では、
多様・・・というよりは複雑になりました。

しかしそのむかしは、そうやすやすと
「場所」を捨てることはできなかったでしょう。
「生業」があって「場所」に住みついたのではなく、
この「場所」があって「生業」を生み出した。
そして「集落」がつくられた、そう考えます。
「棚田」がそうであるように、
逃れられない「切実さ」から生まれた姿に、
「美しさ」を感じずにいられませんでした。

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