切実さ・・・京の町家を訪れて

8月、札幌から松山までお盆で帰省する時、京都に立ち寄りました。
京都はやはり好きな街で、何度も訪れていて、
店に改装した町家に行ったことは幾度となくあるんですが、
今回初めて、そのままの状態の町家を見る機会を得ました。

町家というとむかしの「家」。
しかも「うなぎの寝床」などと言われるものだから、
「小さな家」というイメージが先行しがちですが、
実際には敷地面積が100坪もあるような、かなり大きなものです。
「うなぎの寝床」というのは、
間口に対して奥行きが深いのでそういわれているだけで、
決して小さな家のことを揶揄したものではありません。

ましてや「家」としてイメージすると
こんな大きな家はいらないだろうとなるでしょう。
実際、期間限定で公開されていたこの町家も
大きさを持て余し、家主の方は、奥にもう一軒
小さな家を建てていて、そこで暮らしておられました。

現代人が正しく町家をイメージするためには、
「社宅付店舗兼社長邸」あるいは「社宅付工場社長邸」
と思った方がよいでしょう。
ここに社長とその家族、社員一同が暮らしているとなれば、
(拝見した町家では総勢20名あまりが暮らしていたとのこと)
そういう意味では、確かに小さいのです。

町家というとやはり「中庭」「奥庭」などの
風通しや採光に考慮した作りや、
通り庭に見られるような機能性に目が行きます。
「中庭」と「奥庭」の大きさを変えることで、
影の少ない温かい庭、影でおおわれる冷たい庭をつくることで、
風を起こすとか、「通り庭」などは、いわゆる
ハイサイドライトをもうけて採光と煙出しをしているとか、
これだけ「通り庭」を明るくできる一方、
居室には「中庭」「奥庭」が採光のためにあるにもかかわらず、
わざと反射が少ない材料で暗くして、
光を「見せる」という方法で取り入れたり、
こういうところの合理性や美学に驚かされるばかりなのですが、
今回の町家拝見で一番頭をもたげたのが
「丁稚どんは、結婚できるのか?」ということです。

勝手な想像をしました。
たぶん丁稚どんの多くは次男でしょう。
ブラジル移民やハワイの移民の多くは次男だと聞きます。
長男は先祖代々の土地や家業を守るため残るのは必然。
この北海道の開拓も多くの次男によって
成し遂げられたのは、想像にかたくない。
この町家では、長男は個室が与えられ、
他の兄弟は雑魚寝だったようです。
長男は家業を継ぎますから、相当大事にされていた。
一方、次男である丁稚どんは、もう帰る家もないのです。
結婚するから実家にかえりますという選択肢はない。
結婚するということは、この家(店)を出て行くと言うこと。
つまるところのれん分けしてもらって、
店を持つと言うことではなかったのでしょうか。
(注:相当オーバードライブさせて書いてます)

制度としての「家」が如何に強固なものであったか、
そして建築としての「家」が如何にそれを反映させたものであったのか。

振り返って我が家の計画。夫婦2人子供なし。
つまり継ぐものはいない。変な話、「墓」をつくるのと変わらない。
建てる前から、遺言書をつくっとかなきゃな、
などと冗談ともそうでないとも言えないことを考えたりします。

うちの近所を歩いていると、打ち捨てられた家があります。
誰のものともわからない。その家を継ぐ人は途切れてしまい、
売るにも売れず、壊すにも壊せない。
これからこういう家は増えるでしょう。
その家の前を通るたびにそんなことを考えます。

一方、家の流動性を高めるため、きちんと標準化された形で
資産として査定できるように制度をつくり
「金」として流通できるようにしようとする動きがあります。
もちろん今でも不動産として流通していますが、土地の部分
だけでなく上物の建物も含めてきちんとするということらしい。
例えばそうすれば、いよいよ老人ホームで世話になる時、
売るなり担保にするなりすればいい訳です。

けれど、だれにとっても価値を持つ家と言うのは、
まるで一万円札がどれを見てもやっぱり一万円札なように、
全部同じになるだろうことは、明らかではないでしょうか。
資産としての家をつくるのか、
自分たちの価値を反映した家をつくるのか、
あえていうならば、計画するこの家は、
他の誰も住みこなせない家にしたい。

建築としての「家」を守ることは
制度としての「家」を守ることと
同義であることを痛感した旅でした。

切実さ・・・小さな海辺のまちで


ずいぶんと長い間ほったらかしになってしまいました。
7月8月9月の3ヶ月の間、札幌から松山、京都、
四国の港町八幡浜、石垣、竹富島、西表島、
黒島、沖縄本島といろいろなところに行っていたのですが、
書く気持ちの余裕が無かったり、いろいろ見て感じたものを
なかなか自分の中で消化できなかったり、
そういうわけで、なかなか筆がすすみませんでした。

この旅を通して考えたこと・・・・
「切実さ」ということが頭を離れません。
「自宅建設」の計画に話を絞れば、
「この計画の切実さとはなにか?」という問いが
生まれてきたというわけです。

四国の三崎半島の付け根にある港町八幡浜の市街から
車で15分程度でしょうか。市町村合併する前は、
保内町というところでした。
私の父が生まれ育った場所です。
父の育った実家はすでに人に貸していて、
遠慮もあってなかなか行くことが無かったのですが、
故あって、久しぶりに訪れました。

今やここも寂れてしまったまちのひとつですが、
往時は、いち早く銀行ができたりして、
瀬戸内の海運でにぎわったまちです。
父の実家も船を持っていて、小倉から石炭を積み
大阪へ、大阪からの帰りは雑貨を積んで広島へ、
広島からは坑道に使う材木を積んでまた小倉へと
一家で海運業を営んでいました。「海運業」というと
聞こえはいいですが、漁師でいう「網元」として
「おけや」といわれる総元締がいて、
そこで差配される仕事をやるという立場です。
そんな船が家みたいな人たちが陸(おか)で暮らす場所は、
山が迫り、集落は石垣を積んだ上にできています。
街路はくねくね、人とすれ違うときは、
互いにゆずらなければならないくらいの狭さです。
この集落をつくるには、相当な苦労があったことでしょう。
ではなぜここに人は住みついたのでしょうか。

今や「生業」のために「場所」を捨てることは、
当たり前のこととして受け止められています。
私もこうして一人になる前は、サラリーマンで、
東京、名古屋と転勤し、仕事をしていました。
「生業」と「場所」の関係は、現代では、
多様・・・というよりは複雑になりました。

しかしそのむかしは、そうやすやすと
「場所」を捨てることはできなかったでしょう。
「生業」があって「場所」に住みついたのではなく、
この「場所」があって「生業」を生み出した。
そして「集落」がつくられた、そう考えます。
「棚田」がそうであるように、
逃れられない「切実さ」から生まれた姿に、
「美しさ」を感じずにいられませんでした。